映画学メモ
日本ではまだイマイチ馴染みの薄い「映画学」なるものを、イギリスの大学から実際の映画学の授業に沿うかたちで紹介していきたいと思います。まー気楽にいきましょう。
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映画学入門 Week 4(その3)
ちょっとご無沙汰しておりましたー。
ohitotsu.jpg

僕はシュールリアリズムについてのコースをとっていて、とても面白いので気合いれてやってるんですが、そのコースのプレゼンがおとといの木曜日にありましてちょっとそちらにかかりきりになっており、その後も色々忙しくて更新できずにおりました。

もう来週の火曜日にはWeek6の授業があるので、早いとこWeek5(「戦艦ポチョムキン」)の分も終わらせないけません。ちょっと押してるなぁ・・・。

と言いつつも、今回は前回のお題であったメゾンセンについての補足からであります。

☆メゾンセン(mise-en-scene)についての補足

メゾンセンについて、二点ほど簡単に補足したいと思います。


まず前回のメゾンセンについてのエントリーにDepperさんが以下のようなコメントをくださいました。とても簡潔にメゾンセンのポイントが述べられていたので、引用させていただきたいと思います。

映画をいわゆる映画(というフレームワーク)として分析するときに非常に基礎になる概念だと思います。これをうまく把握していないと、映像テキスト分析なんかをしてものを書くときにああーっという間に映画の書き物じゃなくなったりしてしまいますしね。いわゆるレビューなんかを読んでも、執筆者がここらへんをきちんと押さえているかいないかがわかってしまいますし、そういうレビューはあまりこちらに満足な情報を与えてくれません。

前回のエントリーでも書きましたように、「映画をいわゆる映画」として分析する時にメゾンセンは基礎となること、またこのメゾンセンという概念(つまり、映画として「映っているもの」についてきちんと語る)を抑えていないと「映像テキスト分析なんかをしてものを書くときにああーっという間に映画の書き物じゃなくなったり」する、というあたり、とても大事なポイントであります。Depperさんどうもありがとうございました。

もうひとつは、昨日映画の本を読んでいたらちょうどメゾンセンという言葉が出てきたので、そこんとこをメゾンセンという言葉の使い方の例として、ちょっと引用したいと思います。必ずしもベストな例ではないですが・・・。引用元はFrank Krutnikという人の「In a Lonely Street: Film Noir, Genre, Masculinity」という本です。一応原文載せますと;

The dream-sequence itself is an early example of one of film noir's spectacularly 'explosive' visual set-pieces, laden with such Expressionistic techniques as tilted camera set-ups, heavy chiaroscuro lighting and exaggerated-perspective sets. The distorted mise-en-scene serves as a correlative of the hero's psychological destabilisation.

で、日本語では大体以下のような感じです。

この映画には多くの表現主義的なテクニック(角度がつけられたカメラアングル、光と影の際立った対比、過度に強調された空間の立体性)が盛り込まれており、それ自体フィルム・ノワールにおける「爆発的」な視覚効果の初期の例といえる。歪んだメゾンセンが、主人公の精神的な不安定さと対応しているのである。

ここでは「角度がつけられたカメラアングル、光と影の際立った対比、過度に強調された空間の立体性」をひっくるめた総合的な「ビジュアル」として「メゾンセン」という言葉を使っていますね。



3、カリガリ博士と表現主義映画

というわけで、やっとカリガリ博士のお話です。ここんとこは、僕が9月14日にこのBlogで書いた「ちょっとだけ映画学 ===カリガリ博士と表現主義===」というエントリーを加筆・修正してお送りします。

CabinetdesDrCaligari1920-01.jpg
「カリガリ博士」 1919年

ここで主題になるのは「映画には何が映っているのか」という問いです。前回やったことを踏まえると、「映画のメゾンセンは、どんなものを表現しうるか?」と言ってもいいかも知れません。

映画ってのは写真と同じように「現実感」が極めて強いメディアです。一応「現実の風景をそのまま写し取る」ということで(これは単純に「そのまま」とは言えないのですが・・)、絵画のような描かれたイメージよりも遥かに現実に近く、その現実感が映画の大きな特徴になってきました。

しかし、映画に絶大な力を与えてきた現実感は、一方で制限にもなります。「目に見えないものをどうやって表現するのか」という問題が出てくるんですね。人間の感情や、抽象的な概念などを表現するのが難しいわけです。

この問題は、絵画が映画よりも早くに手をつけていました。それが、目に見えるものを内面の反映として表現する表現主義です。

分かりやすいのはやっぱこれ↓でしょうか。
Expressionism.jpg

すごく単純な言い方になりますが、感情というのは人間の内面にありますよね。そんでその人がのっている橋とか、その人が見ている空、というのは外面であって、彼の内面とは繋がっていないですよね。でもこのムンク「叫び」では、山とか空とか橋、といった、叫んでいる男の内面ではないものも、彼の内面の苦悩とか絶望と連続した空間として、内面の表現として描かれています。これを一般的に表現主義、というんですね。

そんで「カリガリ博士」ですが、これもムンクの「叫び」に通じるような歪んだ世界が主人公を包んでいます。
caligari.jpg

caligaroom.jpg
これって見りゃわかるけど、みんなセットなんですよねー。スゴイですね。このセットを作った人達は、実際に絵画の方の表現主義を知っていて、影響を受けた人達です。

「カリガリ博士」はぜひ見ていただきたい映画で、ネタバレになるので言いませんが、この世界の歪みってのが「ただこういうのが絵的に面白いからやってみよー」っていう話ではなくて、何らかの内面的歪みの反映としてあるわけです。つまり外面的で目に見えるものが、目に見えないものの延長、その視覚的表現としてあるわけですね。これが映画というメディアが、自分の弱点である「目に見えないものを表現できるか」という問いに対して出した一つの答えであり、映画における表現主義と呼ばれるものです。表現主義は特に「カリガリ博士」が作られたドイツにおいて盛んで、「ドイツ表現主義映画」と呼ばれる一連の映画が「カリガリ博士」に続く20年代に作られたんですねー。

さて、ここで表現主義映画を今まで見てきた映画の発展の文脈に位置づけて見てみましょう。前々回の「映画にとっての20年代」でやりましたように、20年代はハリウッド的な主流映画文法の確立と、それに対抗する新たな映画文法の模索、という二極的な動きがダイナミックに展開された時代でありました。「カリガリ博士」は明らかにこの後者に属するわけですね。主流映画文法の父であるグリフィスについてお話したところを思い出していただくと、Continuity Editingによって彼が目指したのは、ひとつの統一されていて連続的な映画的空間でありました。グリフィスは色んなことやってるので一概には言えないんですが、乱暴に言ってしまうとグリフィスが目指していたもののひとつは「空間のリアリズム」であったということができると思います。これに対して、「カリガリ博士」は空間的なリアリズム、というのは全然意識してませんよね。誰が見てもすぐに「カリガリ博士」の空間はセットであるとすぐに分かるわけです。グリフィスの映画たちと比べると「カリガリ博士」というのは表現主義的な技法によって人間の内面・感情・心理といった、そのままでは視覚的に見えないものを視覚的に表現しようとしたわけですから、「心理的リアリズム」と言えるかも知れません。

そして、「カリガリ博士」は明らかに見た目も内容も特殊な映画なわけですが、この映画が切り開いた表現主義的技法はその後も受け継がれ、もっとフツーの映画の中にフツーに溶け込んで使われていくわけです。

例えば、ダグラス・サークという監督に邦題「天は全てを許し給う」、原題が"All That Heaven Allows"という1955年につくられた映画があります。この映画は批評家にもとても高く評価されていて、かなり深いテーマをもった映画なのですが、基本的には娯楽としてのメロドラマです。
AllThatHeavenAllows_01044_jpg.jpg
「天は全てを許し給う」 1955年 ダグラス・サーク監督

そのオープニングでは、この↓ようなショットがあって
AllThatHeavenAllows_01008_jpg.jpg
これって、町並みが明らかにセットと分かるように撮られてるんですね。当時の他の映画セットとの比較は自分の不勉強でできないのですが、これはこの映画のテーマの一つである「上流社会の見かけだけの薄っぺらさ」を「薄っぺらで明らかにつくりもののセット」で表している、という風に映画学ではよく言われます。確か監督自身も言っていたんじゃなかったかなぁ。定かではないですが。ですから、もしこのショットをそのように解釈すれば、これは「カリガリ博士」と同じように、目に見えないものを物理的外面的に表現した表現主義的な技法、ということができるんですね。

他にも、この場面↓、画像が小さくて申し訳ないんですが、テレビに主人公の女性が映りこんでいるシーンです。
allthatheaven.jpg
これは彼女の息子が「お母さんテレビさえあれば退屈しないしハッピーだぜぇ」みたいな感じでテレビを持ってくるんですが、ちょうど彼女が家庭と自分の恋の板ばさみになっている時なんですね。だから、テレビに映りこんだイメージは、「安定した、家庭らしい家庭」の中に閉じ込められている彼女の心理状況の反映である、という風に、これもカリガリ博士と根本的には同じ技法だとみることができます。少なくともこの監督に限ると、彼はこういうのがホントに好きで、わざとやってるんですよね。



というわけで、「カリガリ博士と表現主義」でしたぁ。
エントリーの中に、丸々ひとつ他のエントリーを持ってきちゃったこともあって、だいぶ長くなってしまいました。お付き合い頂きどうもありがとうございましたー。

もう夜中の二時じゃないくわぁーーー。大学のクラブから出てきたイギリス人たちがウルサイです・・・。

次は「戦艦ポチョムキン」とモンタージュ技法についてです。

ではでは、また。

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テーマ:映画 - ジャンル:学問・文化・芸術

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2008/12/08(月) 16:18:41 | URL | #-[ 編集]
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