
そーいえば最近「映画学 用語」とか「mise-en-scene」(メゾンセン)とか「映画 文法」といった感じの検索で映画学メモに辿り着いてこられる方が多いようです。やっぱり映画学関係の用語って皆さん興味あるんでしょうか。
そのうち左側のメニューに映画学用語集でも作るつもりであります。
先日は先生と修論についての相談をちょっとしてきたのでしたー。まだまだずいぶん先の話なんで、あんまり突っ込んだ話にはならなかったんですが、マンガとジェンダーといった辺りはかなり興味を持ってくれていました。

リバーズ・エッジの話とか
3、エイゼンシュタインとモンタージュ
さぁそんなわけで、まさに「映画文法」であり「映画学用語」であるモンタージュのお話ですね。実は、前回のエントリーで「次回は戦艦ポチョムキンについてです」と書いたものの、やはり自分で内容をまとめるとあんまり映画そのものについての話ってできなそうです。やっぱり編集技術であるモンタージュを映画を見せずに語るってのは僕の文章力ではなかなか無理があるようでして、申し訳ないです。しかも、モンタージュの話をしてると画像を入れづらい!んです。今週は文字ばっかりですいません。
さて、モンタージュというものについての一番基本的な定義は前々回にやりましたね。
というものでした。とりえあずこの文章で分かりづらいのは「ダイナミックに形作る」っていうところですよね、多分。ダイナミックって何だよ、もうちょっと具体的に。っつう話です。でもこの「ダイナミック」っていうのがモンタージュっていう概念の核になるところでありまして、ここで言っているのは、(意味的または時間的、それか両方において)単純に繋がっていない二つのショットを観客が頭の中で自分で意味を作って繋げる、ということです。モンタージュ映画というものが複数のショットによって組み立てられていれば、必ず編集というものが存在することになる。そして一つのショットがその前のショットと単純に繋がるわけではなく、その組み合わせが何らかの意味をダイナミックに形作る場合、それはただの編集ではなく「モンタージュ」と呼ばれる。
・・・まだ分かりづらいですよね。このモンタージュの基本的な性格は、エイゼンシュタインと同時代に生きたクレショフという人の「クレショフ効果」という実験を見てみると良く分かります。
クレショフ効果とは何かというと、彼はまずある役者の無表情な顔のショットを撮ってですね、それを色んな別なもののショットと繋ぎ合わせてみたんです。
無表情な顔のショット→暖かそうなスープ
無表情な顔のショット→棺に入れられた老婆
無表情な顔のショット→遊んでいる小さな女の子
ってな感じです。どのパターンでも、二つ目のショットには最初の役者は全然出てこないんですよ。するとどうなるかっていうと、見ている人が勝手に二つのショットの意味を繋げて解釈するわけです。顔のショットはみんな同じなのに、最初のパターンでは「空腹」、次のやつでは「悲しみ」、最後のやつでは「愛情」といった別々の表現を感じ取っちゃうんですね。これを最初に見たソビエトの観客は、「ほとんど表情を変えずに色んな感情の変化を表現するとは、なんてすごい俳優だ!」ってビックリしたそうですよ。つまりショットには映っていない意味が観客の頭の中で作られるんですね。この実験が「クレショフ効果」っつうもので、モンタージュの分かりやすい例であります。
そして前々回に書きました「編集の定義」というのを思い出すと、引用文の中に以下のような一節がありました;
このクレショフ効果(というかモンタージュ全般)というのがまさに「映画というものの仕組みが意味を作り、物事の関係を語る」ということの明らかな例だと言えますよね。クレショフ効果を考えると、それは役者や映っているものが物語を語っているわけではなく、「編集」という映画独特の装置が意味を作っているわけです。映画において「物語を語る」ということは、その出来事をカメラの前で演じる・起こす・見せる、というだけではない。物語というものの多くの部分は映画というメディアの中で語られるのではなく、映画というメディア「によって」語られるのである。それは映画というものの仕組みが意味を作り、物事の関係を語るということに他ならない。

モンタージュ船長
☆そしてエイゼンシュタイン
クレショフがもうモンタージュやってたんだったら結局エイゼンシュタインは何をしたのさー、って話です。
クレショフ効果というのもすでにモンタージュであるわけですが、そこにある二つのショットの繋がりは、そこまでありえない繋がり方じゃなかったですよね。人の顔が映って、次にスープ、なんていうのは繋がりが観客の頭の中で作られはしますが、まだ分かりやすく、現実として十分あり得るものでありますから、このようなモンタージュは「補完的」であると言えます。
ここでエイゼンシュタインは、クレショフの考え方を一歩進めて 「パッと見ほとんどつながりがないようなもの同士をモンタージュして、ただ補完するだけではなく、新しい意味を作り出す」というモンタージュを始めるわけです。考え方としては、ショットAと、それに続く(空間的・意味的に明らかなつながりのない)ショットBが衝突することによって、新たな意味が生まれる、っつうことですね。これを衝突的モンタージュ(Conflictive Montage)と呼びます。一般的には、これがエイゼンシュタインのモンタージュ、ということになります。
例としては、エイゼンシュタインの「十月」という映画に次のようなシーンがあります。写真がなくて申し訳ないんですが・・・。第一次世界大戦中のシーンで、塹壕に入って上を見てる兵士のショットがあるんですね。んで、そのショットと交互に工場で作られてクレーンで下に下ろされているキャノン砲かなんかのクロースアップが交互に出てくる、っていうシーンです。これは、空間、時間的に繋がりはない二つのショットです。また、クレショフ効果のように補完的に意味をつなげられる二つのショットでもないわけですよね。なので、エイゼンシュタインが言うには、この二つのショットが衝突して観客の頭の中に第三の意味が生まれる、というわけです。この場合は映画を通して見ると分かるんですが、臨時政府が(戦争を続けるという選択によって)ロシアの人民を抑圧している、という映像の中には映っていない(メゾンセンとしては存在していない)意味が、観客の頭の中に生まれて、観客はその意味を受け取る、っていう寸法です。
でもやっぱりこれは映画を見ていただかないと説明するのが難しい!ぜひお時間のある方は「戦艦ポチョムキン」か「十月」あたり、ごらんになってみてくださいませ。
最後に一つ書きますと、このモンタージュというテクニックは観客に意味を作らせようとするわけですから、当時の社会状況ととても密接に関係しています。前回のエントリーで書きましたように、新しいソビエトという社会主義の国ができて、大衆、労働者が国を作っていく、という政治方針を掲げているわけですから、映画においても上から下に意味を与えるだけなくて観客も参加して意味を作る、というモンタージュの技法が「政治的に」喜ばしいものだったんですね。勿論これはそんな単純な話じゃなくて多くの矛盾も抱えており、エイゼンシュタインにしても観客に意味を作らせているようで、その実ただ単に観客を「操作している」だけなんじゃねーのか、っていう批判は常について回るわけです。上にあげた例もそうですが、彼のモンタージュは自由な連想を許すというよりは「正しい」解釈というものが存在するモンタージュでありました。
ここらへんは実に複雑なので、今回はこの辺で次に移ろうと思います。モンタージュについてはいつも以上に分かりにくいところが多々あったと思いますので、ぜひコメント欄ででも批判・質問など頂ければ幸いです。
ではでは、次回はアンダルシアでお会いしましょう。
アンダルシアは、モンタージュ以上に語りづらい・・・というか、語るべきではない(笑)気がしてまして、さてどうしようかという感じです。僕にとっても思い入れがある作品なんですよねー。
「フィルム・アカデミア」さんのトラックバック先のエントリーも読ませていただきました。なんとうか、かなり鬱になるお話ではありますが(笑)、マルヴィ女史のくだりなど、とても興味深く読みましたよー。
書き込みありがとうございました!
お役に立てたようで何よりです。映画学も結構意味わかんないような言葉とか多いですもんね、mise-en-sceneとか何とか。
お互いイギリスで映画学ということで、がんばっていきましょう。ぜひまた遊びに来てくださいませ。




