映画学メモ
日本ではまだイマイチ馴染みの薄い「映画学」なるものを、イギリスの大学から実際の映画学の授業に沿うかたちで紹介していきたいと思います。まー気楽にいきましょう。
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映画学入門 Week6(その3)
毎度お世話さまです。

最近ちょっと忙しくて更新できてませんでした。
jikanneeyo.jpg
ちょっとスケジュールが押し気味なので、なんとか頑張って追いつきたいです。

そんなわけで、「アンダルシアの犬」のまとめであります。

☆「解釈」という行為
前回は、「アンダルシア犬」が映画という枠組みそのものを問題化し、問い直す性格を持っている、というお話をちょっとしました。今回はそれをさらにもうちょっと広げて、「アンダルシアの犬」は映画学というこの文章が属する枠組み自体にも、何か重要なものを示唆しているのではないか、ってな話です。



「映画学」ってのは一応学問ですから、どうしてもその対象(つまり映画やそれを取り巻く様々な現象)を読み解くとか理解するとか定義するとか、そういう方向に持っていかざるを得ないところがあります。つまり、バラバラで得体の知れないフワフワしたものを、ひとつのまとまった、名前のある、他との関係が定義できるものへと変えるという働きです。例えば「戦艦ポチョムキン」であれば、これはエイゼンシュタインがモンタージュ技法の実験を試みた映画であり、ソビエトのプロパガンダ映画であり、20年代を彩る様々な映画的実験の一翼を担う映画だった、となるわけじゃないすか。こうやって映画をキチンと定義できるものに変えて、歴史なり社会なりの大きな流れの中にはめこんでいくってな感じです。でもこういう働きって、映画というものが持っている複雑さや多面性をある程度犠牲にしなきゃ成り立たないんですよね。例えば「戦艦ポチョムキン」って何度か見てみると、もんのすごく人々の顔をイキイキと捉えてることに気づきます。庶民の顔というか、なんか政治闘争とかプロパガンダ性とはちょっと違うような視線もあるわけなんですよ。まぁ庶民に注目することはソビエトのイデオロギーと関わってはいますが、やっぱり定説とされている解釈ではなかなか見えてこない面だと思うわけですよー。映画学的にスタンダードな解釈ってのはこういう要素は省くことによって成立してる面があるので、映画というものの多面性や複雑さを犠牲にする危険っていうのは、映画学は常に孕んでいると個人的には思います。

そもそも映画という本質的に娯楽的なものを映画学として学問的に扱おうとしてるわけですからねぇ、やっぱその限界というか制限というか危険というか、そういうものは常に認識してなきゃいけないですよね。

「アンダルシアの犬」は、映画学の、また「解釈」という行為全般の、そういった危険性を鮮やかに描き出す映画だと思います。もちろんこの映画の解釈を試みることは可能ではあります。例えば切り落とされた手を眺める男装の女性、また支配し罰しようとする「父親的」男性と彼の射殺、というように映画のあちこちにフロイト的な「オイディプス・コンプレックス」の表現を見ることは可能なんですよね。他にも、神父が出てきて引きづられてるところなんか、明らかにキリスト教の権威に対する攻撃・批判であるように見えます。でもこの映画の表現のバラエティ、非論理性、映像表現の力強さといったものを考えるとどうしてもこの映画はなんらかの解釈に縛られることを強く拒絶しているように個人的には思えます。

もちろんここんところはぜひこの映画を見ていただいて、みなさんに判断して頂きたいなと思うところであるんです。

ブニュエルは自身の回想において「アンダルシアの犬」を作った時は「あらゆる解釈や理論付けを拒む映画をつくりたかった」と言っています。つまり、「アンダルシアの犬」には「正しい解釈」といったものが存在するわけではなく、正しい解釈を探そうとする行為そのものがすでにこの映画についての誤った解釈である、という言い方ができなくもないんじゃないかなーと思ってしまうわけですよ。そういう意味で、この映画は「映画学」という枠組み自体もまた問題化し、問い直す要素をもっているのではないでしょうか。

ホントに色んな見方ができる映画です。



というわけで、今回はイマイチはっきりしないエントリーですいませんでした。まぁそれもシュールリアリズムということで。

さて、次回は20年代シリーズ最終回「トーキーの登場」です。
スケジュールがおしているのでサクサクと上げていきたいなぁ・・

ではでは。
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コメント
この記事へのコメント
危険!
アンダルシアお疲れ様です!
映画を学問として、読み解き、理解し、定義するという行為は他の分野よりも多分に高い危険性をはらんでるんだと思っています。それは映画が持ってる媒体としての多面性、多様性によるものなんでしょうが、どこまでが学問的分析、解釈、方法論なのかを把握するには時間がかかると思います。ある意味この辺が中々浸透しにくい学問となっているのかなぁなんて思ったりもします。日本では映画学という枠組みではなく、映像or表現文化みたいな中に漠然と取り入れられてしまって余計にその学問としての形が見えなくなってしまっていると思うのは私だけでしょうか…。

先日日本の学術シンポで実感しましたが、傾向として日本では、映画の理論的&イデオロギー的解釈は「あー現代思想ね」、詳細テキスト&映像分析による解釈などは、「あー意味論ね」で片付けられてしまっているのでは、という現状でした。。。

半分愚痴っぽくなってしまってすいませんが(苦笑)、いよいよ次回はトーキーの登場ですか、映画のひとつの節目ですね、楽しみにしてますー。
2005/11/30(水) 11:24:09 | URL | Depper #hJZqYFTY[ 編集]
「あー」じゃねえよ 「あー」じゃ!
と日本の映画学者に言ってやりたい。
Depperさんいつもありがとうございます。

映画学はホントに学問として曖昧な分野で、個人的にはそれが強みだと思ってるんですが、「あー現代思想ね」とか言ってたら弱点ですな。。難しいところですね。
2005/12/02(金) 15:50:56 | URL | タカ@映画学メモの中に入ってる人 #6SWgxDAM[ 編集]
格闘技
2008/11/30(日) 17:46:34 | URL | #-[ 編集]
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