映画学メモ
日本ではまだイマイチ馴染みの薄い「映画学」なるものを、イギリスの大学から実際の映画学の授業に沿うかたちで紹介していきたいと思います。まー気楽にいきましょう。
201706<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>201708
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
映画学入門 Week13(その1)
Week13

映画的におけるパフォーマンス


ご無沙汰しております。
namakemono.jpg

なんとか生きておりました。最近は何をしていたのかというと、映像製作コースの撮影やら自分の映像プロジェクトのロケハンやら錬金術の研究などをしておりました。そうです錬金術ですよ。いやー素敵です錬金術。別にリアルで金をつくろうとしているわけではないのですが、ひとつの思想/哲学としての錬金術をちょっと勉強したりしてました。自分シュールリアリズムが美術論の方では専門なんですが、シュールリアリズムやってると錬金術ってよく出てくるんですよね。

いやーこのBlogももうすこしで錬金術メモになるところでしたよ。

eleazar2.gif
よいこの錬金術

というわけで「映画学入門」の方はいまだにWeek13なのでありました。進むの遅くてすいません。Week13は映画におけるパフォーマンス(Cinematic Performance)ということで、ジョン・カサヴェテス監督の「こわれゆく女」(1974)をお題に映画の中のパフォーマンス、ひらたく言うと「演技」についてやっていこうと思います。構成としては;
1、メソッド・アクティング(Method Acting)とは
2、シネマ・ヴェリテ(Cinema Verite)とカサヴェテス

という感じでいってみましょう。

pic1.jpg
「こわれゆく女」(1974)
ジョン・カサヴェテス監督



1、メソッド・アクティング(Method Acting)とは

さて、言うまでもなく演技というのは映画の良し悪しを大きく左右する重要な要素であり、基本的に、映画があればそこに演技がある、ということができますよね。んでよく僕らは演技がうまい/ヘタという基準で誰かの演技について語ったりするわけですが、実際のところ演技においても色んな種類(方法論)の演技の仕方があるわけで、単純にうまい/ヘタという物差しだけで語りきれない部分があります。ちょうど映画そのものにもハリウッド映画、アート・シネマ、ドキュメンタリーといった色んな種類の映画があって、単純に面白い/つまらないだけで映画を評価できないのと同じかも知れませんね。まぁ個人的にはどんな映画でも面白いのは大事だと思ってますが。

さて、様々な演技の方法論の中で、一般的なものと一線を画すのがこのメソッド・アクティング(Method Acting)です。これははっきりコレ!という定義がなく、これからゆっくり説明していくことになりますが、とりあえずキーワードとしては;
・役者の自由
・内面の観察
・役者の無意識
・役者の個人的体験
・五感の知識
・自発性

といったところがあげられます。

Method Actingはロシア人のコンスタンティン・スタニスラフスキー(Stanislavski;1863-1938)がスタニスラフスキー・システムとして最初に体系化した演技の方法論なんですが、主にその後彼の影響を受けたアメリカ人によってアメリカで発展したためにスタニスラフスキー・システムと区別してMethod Actingと呼ばれているようです。スタニスラフスキーの影響を受けてMethod Actingを発展させた人たちとしては主にリー・ストラスバーグ(Lee Strasberg)、ステラ・アドラー(Stella Adler)、サンフォード・メイズナー(Sanford Meisner)といった人たちがいます。

a_constantin-stanislavski-234.jpg
名前長すぎ言い辛すぎコンスタンティン・スタニスラフスキー(1863-1938)

さて、そんでこのMethod Actingがどんなことをすんのかといいますと、基本的に自分が演技しているキャラクターの心理状態をそのまま再現することを目標とします。んでこれだけだと別にそんな特別な感じもしないのですが、Method Actingのなかで大事なのは、この「キャラクターになりきる」ということを役者の無意識や個人的体験を通して行うわけです。つまり一方では極限までその役柄=キャラクターに同化しようとし、また同時に役者自身の無意識や記憶=自分自身へと向かう方法でもある、ということになります。



・・・申し訳ないんですが、時間切れということで今回はここまでです。ちょっと分かり辛かったとは思いますが、次回はこのMethod Actingの具体的な実践方法なんかに触れていきたいと思います。機会のある方はぜひカサヴェテスの「こわれゆく女」も見てみてくださいませ。

ではでは、またすぐ。









スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
「こわれゆく女」について
 この映画、好きな映画です。こんな言い方がいいのかどうかわかりませんが、最初観た時は「実に演劇的」な映画だと思いました。
 ベルイマンの「ある結婚の風景」の持つ徹底的に言葉中心に織りなされる演劇性とは異なる、いわゆる「ドラマトゥルギー」を感じました。
 人間は愛において病んでいる。しかし、そこにこそ純粋性の発露もある、などと理屈を言ったりします。
 これからの展開楽しみにしています。
2006/03/14(火) 08:09:57 | URL | ヤドリギ金子 #-[ 編集]
勉強になりますね
はじめまして。
「クレショフ効果」で検索してたら、辿り着きました。
今度、会社で「映像」についてのセミナーを開くので、改めて勉強している最中です。
(1時間ほどで映像を語るのも無理があるのですが・・・)
これからも楽しみにしてます。
2006/03/14(火) 10:20:50 | URL | mizu #TIas3XPs[ 編集]
>ヤドリギ先生
なんとなくの印象ですが、自分は「映画」というシステムは深いところで「演技」というものを実は抑圧するものではないかな、と思うことがよくあります。もちろん良い演技は大切なわけですが、映画というもの(特に、いわゆる「ハリウッド映画」)は物語の絶対王政と映像であることから逃げようとする映画言語において、演技を抑圧しているのではないかな、と思うわけです。

そういう意味で、カサヴェテスの映画なんかはまさに「抑圧の回帰」として演技が映画を越えている、というところがあるんじゃないかなーなんて思います。

ぜひまた遊びにきてくださいませ。
2006/03/14(火) 17:55:42 | URL | タカ@映画学メモ #6SWgxDAM[ 編集]
>mizuさん
はじめまして!
書き込みどうもありがとうございました。

一時間の映像のセミナーなんてすごいですねー。でも「クレショフ効果」といったあたり映像の本質ともいえるようなところがあると思うので面白いと思います。がんばってください。

ぜひまた遊びにきてくださいませ。
2006/03/14(火) 17:57:54 | URL | タカ@映画学メモ #6SWgxDAM[ 編集]
わかる、ような気がします。
 例えば、なぜ東陽一や「デュオ」の監督(名前忘れました。オヤジ呆け)が、役者たちに即興の「演技」をさせたのか?
 もしかすると映画と演技を拮抗させ、それによって緊張感をもたらそうとしたのかもしれない?
 私がかつて大好きだった(今も、かなぁ・・)「ゆきゆきて神軍」はドキュメンタリーなはずですが(この辺の区別も難しい!)、あの映画では奥崎が映画を超えて「演技」している。その極限の例のように思います。不勉強で自信がありませんが。
 ところで、奥崎さんもお亡くなりになり、私も新しいコンパッションの在処を探索中です。
2006/03/14(火) 23:41:54 | URL | ヤドリギ金子 #-[ 編集]
自分もなかなか上手く説明できないところですが・・
「デュオ」の監督は諏訪敦彦さんでしたね。

前に書き込んだことをちょっと修正して考えてみるとですね、抑圧されている「演技」の抑圧から解放された状態のものを「パフォーマンス」と呼ぶことができるのかな、と思ったりもします。今回の「Week13」のテーマは「映画的パフォーマンス」となっているのですが、ここらへん「演技」ではなくて「パフォーマンス」という言葉が使われている理由かも知れません。映画(物語)に従属しているものが「演技」であって、それを超えるものとして(そこで抑圧されているものが開放されることによって)それは「パフォーマンス」になる、というようなニュアンスを自分は感じます。

何か主体的で独立しており(autonomous)、「物語」、または映画というシステムの中でひとつの歯車として機能することを超えたものとして「パフォーマンス」があり、それがカサヴェテスの映画におけるジーナ・ローランズと「ゆきゆきて神軍」の奥崎をつなげるものなのかも知れませんね。
2006/03/15(水) 16:27:59 | URL | タカ@映画学メモ #6SWgxDAM[ 編集]
映画と演劇
 パフォーマンスの観点において、映画と演劇はどこで交差しどこで交差しないのか?
 演劇には身体的パフォーマンスにかなりの程度で力点が置かれるところがあると思います。そこには「偶然性」を呼び込む要素がある。一方で、映画には「一回性」は薄く、したがって「偶然性」も編集されてしまう傾向があってしまう。もちろん、奥崎のアクションは撮影時は次々と原監督を裏切り続けた。そして、その辺がパフォーマンスに満ちているフィルムということにもなると思います。
 物語として閉じない意味形成性を付与させるために、映画が用意している戦略ってなんだろうか?
 
 
2006/03/20(月) 04:22:24 | URL | ヤドリギ金子 #-[ 編集]
Re:映画と演劇
ヤドリギ先生いつも面白い書き込みありがとうございます。

演劇の方は自分はまるで素人なので大きなことは言えないのですが・・・

演劇の方においては偶然性や即興があっても、それは強い濃度で観客の存在に影響されていると思います。常にパブリックであるのではないかなーと。

それに比べると、特にドキュメンタリー映画なんかを考えた場合、カメラが被写体(と被写体の日常)に長時間接し続けることによって「被写体の日常」「カメラ」の距離が限りなく近くなる、そういうことがありうると思います。勿論カメラの存在が被写体に対して何の影響も与えない、ということはないわけですが、それでも被写体にとってカメラの存在が自然になってくると、そこには被写体による自発的なアクションなんかが出てくるわけで、「一回性」や「偶然性」と呼ばれうるパフォーマンスが演劇とは違ったかたちで生まれてくるのだと思います。ここらへんまさに「ゆきゆきて」の奥崎なんかはそうだと思いますし、僕が「ゆきゆきて」と非常に近い印象をもったドキュメンタリー映画「Grey Gardens」なんかでも、Edith Bouvier Bealeという女性がカメラの前で監督たちにもほぼコントロール不可能なパフォーマンスを繰り広げます。

もし演劇の一回性や偶然性が根本的に(演劇の不可避性として)パブリックであるとすれば、これらのドキュメンタリー映画においてはプライベートとパブリックの共存、または鬩ぎあいがあると思います。ここらへん、演劇にはないパフォーマンス性なんじゃないかなぁなんて思いました。
2006/03/21(火) 13:15:11 | URL | タカ@映画学メモ #6SWgxDAM[ 編集]
観客とカメラ、そして監督あるいは演出家
 なるほど、整理できました。演劇は肉体をさらし、観客を巻き込むことで、相乗効果を生み、稽古段階では予想もつかなかった展開をもたらすのでしょう。
 「被写体の日常」と「カメラ」の距離が限りなく近くなった成功例として、君もすでにご存じの映画「ヴァンダの部屋」を最近観ました。ただ、この映画もそうですが、ペドロ・コスタ監督は徹底的に主人公のパフォーマンスを「編集」している。初発は自発的なのですが、最終的には「監督にとって好ましいパフォーマンス」として作品化される。
 「ゆきゆきて」にしても、逆説的ですが、とどのつまりは「原監督にとって好ましい裏切りの映像」が「物語」られている。監督はかなりの程度で「観客」を意識している。そこにはハプニング性は薄い。つまり、映画における観客は演劇(もちろんこれは演劇にもよりますが、私がイメージしているのは寺山修司などの演劇です。)と比べると「安全地帯」にとどまっていられる。映画はそれがいかにリアルなものであっても、結局の所は「光の粒」でしかないという限界性を持っている。しかし、だからこそ映画は大衆性を獲得したのでしょうね。
 かなり無理のある雑駁な論理展開だと思います。補足・訂正してください。
2006/03/24(金) 02:59:42 | URL | ヤドリギ金子 #-[ 編集]
リアルの居場所
>ヤドリギ先生

やはりドキュメンタリーでも何でも「リアル」という概念は映画にとって切り離すことができない問題ですよね。

とりあえず大まかな部分では、先生がおっしゃったように;
・演劇の肉体性
・ドキュメンタリーの恣意性
・「光の粒」という宿命をもっている映画
といったあたりはそうなんだと思います。

ただ、やはり映画(主にドキュメンタリー)の題材としてしか存在しえないものもあると自分は思うので、そこらへん複雑な感じがします。演劇と映画だけに限って考えると「ゆきゆきて」や「ヴァンダの部屋」などは演劇では表現できない題材ですしね。

またロラン・バルトが「明るい部屋」という本で写真について書いていたように、それが操作されたものであっても、そこには「存在証明的」な真実(「それはそこにいた」)が存在しうると考えれば、やはりドキュメンタリー映画にはドキュメンタリー映画の真実があるように思えてきます。

ものすごく強引に言ってしまうと;
製作の段階に現実性(actuality)があって配給の段階(実際に映画として上映される段階)では不在的な光の粒でしかない、というのが映画であって、逆に製作の段階ではフィクションなんだけど、それが実際に演じられているそのパフォーマンスは存在的、というのが演劇だ、と言えるような気がしないでもないです。もしそうであれば、演劇は演劇である以上、どの題材も間接的、二次的な表現でしかありえない、という限界性を持っているのかも知れません。

そして光の粒でしかない映画も、ボードリアール的なSimulacraとしては現実の存在としてある・・・のかな。ここらへん、ちょっと簡単には書ききれないところだなーと思います。

2006/03/26(日) 20:44:39 | URL | タカ@映画学メモ #6SWgxDAM[ 編集]
コメントを投稿する

管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
copyright © 2004-2005 Powered By FC2ブログ allrights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。