映画学メモ
日本ではまだイマイチ馴染みの薄い「映画学」なるものを、イギリスの大学から実際の映画学の授業に沿うかたちで紹介していきたいと思います。まー気楽にいきましょう。
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映画学入門 Week13(その4)
japan-britain.jpg

どうもどうも。

業務連絡なのですが、
実は明日からイタリアに行ってくるんです。
友達のところへ遊びに行ってくるような感じで。
帰ってくるのは4月の8日なので、10日ほどこちらはお休みになります。
友達の家に泊まるので、もしかしたらさりげなく更新なんかできちゃったりするかも知れませんが、多分日本語打てないので無理だと思います・・・。
お時間のある方はぜひ左側の「過去の記事一覧」から未読の記事など読んでみてくださいませ。


そんでもイタリア行く前にカサヴェテスのところは終わらせちゃおうと思います。前回はカサヴェテスの映画に影響を与えたものとしてCinema Verite(シネマ ヴェリテ)というムーヴメントのさわりだけやりましたね。

Cinema Veriteはフランスで生まれたわけですが、必ずしもフランスだけのムーブメントではなく、いろんな場所で同時多発的に起こっていて名前も違うんですよね。イギリスだとフリー・シネマ(Free Cinema)、アメリカではダイレクト・シネマ(Direct Cinema)なんて呼ばれていて、もちろん内容や考え方も少しずつ変わってきて細かい部分はなかなか複雑です。そんなわけでここではフランスのCinema Verite、その中でも特にジャン・ルーシュの考え方をもとに進めていこうと思います。

ジャン・ルーシュは「Camera and Man」という論文の中で色々と自分の考え方を書くんですが、重要な基礎になっているのは真実を語るためには題材の真実だけではなく、その表現媒体(メディア)の真実も描かなければならないという考え方です。この表現媒体というのはつまりこの場合映画・映像なわけですから、平たく言うと撮られているものだけでなく、カメラの存在、また「そこでカメラが撮っている」という事実も隠さずに伝えるべきだ、ということでしょうか。

Image18.jpg
Jean Rouch(1917-2004)

前回も書きましたようにルーシュは映画産業というよりは民族学社会学といった学術的研究の方から出てきた人なんですが、普通の映画人と全く違ったバックグラウンドを持っているだけあって、こういうハリウッドの人間が夢にも思わないようなことを考え付くわけです。

だって「カメラの存在を隠さずに伝える」なんていうと、ハリウッド映画の大原則のひとつである「観客にカメラの存在を意識させない」という考え方(ここらへんについて詳しいところはWeek9の内容を参照してくださいませ)と真っ向から対立するわけです。でもそれで面白い映画が撮れないかというと、ルーシュが撮った「ある夏の記録」なんかはフツーに見てて面白いわけです。カメラとマイクだけ持ってテキトーに道行く人を捕まえて「あなた今幸せですか?」なんて聞いたりすんですよ。

Cinema Veriteは、やはり「真実」を追い求めようとするわけですから「キャラクター」ではなくて「人間」に目を向けようとします。役者じゃなくてそこらへんにいる人とか、製作者(この場合はルーシュ)の身近な人たちを撮ったりするんですね。そしてその人間の顔の表情、物語を伝えるためのパーツとしての顔の表情ではなく、自然で複雑な顔の表情なんかを捉えるために顔のクロースアップなんかよく使ったりします。

Cinema Veriteのテクニックやルール(のようなもの)をざらっとあげてみると
・音楽は無し
・なるべく手持ちカメラ
・カメラとカメラマンの存在は隠さない(というかむしろ、積極的に状況に関わったりする)
・ナレーションもなるべくなし
・フェードイン・アウトもなし
・ライティングや光の調節もなし
という感じでして、あとここが面白いんですが、「映画に出てもらった人たちに、完成した映画を見せて、その感想を言ってる様子も撮影する」というのがあります。Feedback Methodと言ったりするようですが、要するに実際に撮られた人たちが、その映画を見て思うこと、製作者に言い返してくることも映画の一部にしてしまおうとするわけです。実際「ある夏の記録」では本編みたいなのがとりあえず終わったあとに、主な登場人物たちが自分やほかの登場人物の描かれ方についてギャアギャア言っていたりしてすごく面白いんですよ。

もちろん映像における「真実」なんてのはかなり複雑な概念ですから、実際問題簡単に「真実の映像」なんて言うことはできないのですが、それでもCinema Veriteは後の物語映画やドキュメンタリー映画に多大な影響を及ぼしていて、カサヴェテスの映画なんかがその最たるもののひとつだったりするわけです。

カサヴェテスの映画を見ると、カメラの存在がものすごくクロースアップされています。これもWeek9のあたりで扱いましたがハリウッド映画の基本ルールのひとつであるContinuity Editingなんかもけっこー無視されているんですよね。カサヴェテスの映画では「カメラの存在がクロースアップされている」っつーのが具体的にどんなことを指すかというと、例えば普通のハリウッド映画ではカメラは受動的で目に見えない(観客の目にも、キャラクターの目にも)ものであり、その場で起こることをただそのまま記録するだけの機械であるように見えます。でもカサヴェテスのカメラは能動的に、自分が写すものを探したりします。これはカサヴェテスの映画の中で僕が特に好きなとこなんですが、カサヴェテスの映画では、「フォーカスが不器用に変わる様子」が映ってるんですよ。つまり、テーブルの奥にいる人にフォーカスを合わせていたカメラが、突然フラフラと手前の人を捉えて、その人はフォーカス合ってないからぼやけてるんですけども、その人にカメラがフォーカスを合わせたりとかするんですよね。カメラの動きってのを感じるわけです。

また、Week13(この週)の「その1」でやりましたけども、役者の自発性や創造性を大切にするMethod Actingってのをカサヴェテスは採用しています。そうすると、映画の中のパフォーマンスに「監督」や「脚本」ではコントロールしきれない部分が出てくるわけですよ。ホントに極端に言ってしまうと「何が起こるかわからない」的な要素です。カサヴェテスの映画は、そういう意味では(勿論物語はありますが)役者のパフォーマンスのドキュメンタリーとも言えるような側面を持っていて、その役者の有機的なパフォーマンスを「記録」する作業はハリウッド映画というよりはルーシュ的、Cinema Verite的なドキュメンタリーに近づいてくる、と言えると俺は思います。カサヴェテスはルーシュのように役者の顔のクロースアップ、特に物語の展開的に必要なクロースアップ(感情の発露や驚きの表現とか)ではなくて、ただ役者の「質感」というようなものを強調するためのクロースアップをよく使うんですが、ここらへんも(そこにはキャラクターがいるのですが)「キャラクター」ではなくて「人間」を撮ろうとしたカサヴェテスらしいところで、またCinema Veriteの影響だと言えると思います。

そしてこのカサヴェテスの映画たちがアメリカ・インディペンデント映画の源(のひとつ)となるわけですから、カサヴェテスに大きな影響を与えたCinema Veriteもまたアメリカ・インディペンデント映画と切り離せない関係にあるってことですね。そういう意味では、例えばジム・ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」なんかもビジュアル的にCinema Veriteと似ている部分、似てない部分が両方あって面白い映画ですね。



さて、すげー駆け足でしたけども、とりあえずWeek13のまとめでありました。
次回はファスビンダーというなかなか面白い映画監督についてやる予定です。

そんなわけで10日ほど留守にするわけですが、みなさん時々映画学メモのことも思い出してやってくださいませ。

ではでは、また。
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コメント
この記事へのコメント
シネマヴェリテは60年代に起こったムーブメントだと記憶しています。シネマヴェリテの例としてよく引用されるChronicle of a Summerは1961年の作品。カサヴェテスのShadowsは1959年の作品。となると、シネマヴェリテがカサヴェテスに影響を与えたとは言えない気がしました。もしかしたらアメリカではダイレクトシネマという形で、シネマヴェリテより前にそのようなムーブメントが起こっていたのではないかと考えたりしましたが、ダイレクトシネマの歴史については資料不足でよくわかりません・・・。
2006/04/02(日) 12:31:46 | URL | 鳥かごの中にいるかよこおばちゃん #-[ 編集]
鋭い
>かよこちゃんどうも。

確かにそうなのよね。
カサヴェテスの「Shadows」は「Chonicle of a Summer」よりも早いし、カサヴェテスの映画ってのは彼の役者としてのキャリアに根ざしてる部分が多くあるから、そう考えると彼の映画のルーツはもっと時間的に遡るしね。

だから、このエントリーのようにシネマヴェリテがカサヴェテスを作った、というような言い方は正しくなかったな。

でもカサヴェテスの「Shadows」と例えば「Faces」(1968)や「こわれゆく女」(
1972)なんかを比べると、やはり色んな変化があるわけで、それはカメラとパフォーマンスとの繋がりが緩やかになっていく過程や、ジーナ・ローランズという役者へのフォーカスであったりするような気が自分はしていて、そこにはシネマヴェリテ的な影響がやはりあるような気もするんだよね。シネマヴェリテはシネマヴェリテでジガ・ヴェルトフやロバート・フラハティにルーツをとっているように、それなりにバックグラウンドがある考え方だしね。

それと、シネマヴェリテ的な運動は、同時期にあちこちで起こったことからも分かるようになんとなく時代の流れとしてあったのではないかなーと俺は思ってて、そういう意味ではむしろ同じ「潮流」の違った現れ方としてシネマ・ヴェリテとカサヴェテスはあるのかも知れません。

何にしろ勉強不足でちょっと正確なところはわからない・・。ごめんね。

ちょっと先生にも聞いてみるよ。
2006/04/09(日) 15:09:24 | URL | タカ@映画学メモ色の思い出 #6SWgxDAM[ 編集]
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