映画学メモ
日本ではまだイマイチ馴染みの薄い「映画学」なるものを、イギリスの大学から実際の映画学の授業に沿うかたちで紹介していきたいと思います。まー気楽にいきましょう。
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映画学入門 Week14(その2)
おばんです。
イギリスもだいぶ春めいてまいりました。
仙台では桜が咲いたとか。

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なんとなくミッキー

「映画学入門」の方では毎Week毎にそのWeekの題名みたいなものを決めているのですが、今週のやつを考えるのをとんと忘れていたわけですよ。

えーと、何にしましょうね・・

映画は誰のもの? Auteur Theory危機一髪

とかにしますか。まぁ危機一髪とかどうでもいいんですが、「映画は誰のもの?」ってのはAuteur Theoryに限らず色んなところでテーマになる問いであります。


2、Auteur Theory(映画における作家主義)とは?

というわけでAuteur Theoryのお話です。一応フランス発祥の理論なので「Auteur」っていうフランス語を使っていますが、これ英語に直すと「Author」であります。「作者、作家」みたいな意味ですね。ちなみにこのコトバをちょっといじるだけでAuthority「権限、権力、専門家」みたいな意味になったりして、だからなんだ、って話ですがちょっと興味深いところであります。

この理論は簡単に言うと「映画を映画監督の芸術的、内面的な表現として見る」という理論です。別な言い方をすると、映画監督をアーティストとして見る、ということでもありますね。

これって別にそんな特別なことに聞こえないかも知れません。今フツーに考えて、映画監督っつったらやっぱアーティストって感じだし、映画の宣伝なんかでも「○○○○監督作品」みたいに「この監督がつくりました」ってな感じで監督がフィーチャリングされるのは当たり前なわけです。

でもここは前回扱った「歴史化(Historicizing)」が絡んでくるところでありまして、映画監督=アーティストというような考え方は映画が誕生したときから今までずーっとフツーにある、というわけではないことを考える必要があります。ついでに言うと「映画というものが社会の中でどれくらい真面目に扱われていたのか」というのもまた時代とともに変わってきたわけですから。

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20世紀の前半あたりまでは極端に言うと映画監督はアーティストというよりも技術屋、職人に近い見られ方をしていたんですよね。例のD.W.グリフィスとか例外もありますが。そして映画自体も、今は「アートハウス」とか「アートシネマ」なんて呼び方があるようにアートとしての映画(もある)という考え方はフツーですが、昔はただの娯楽としてしか見られてなかったわけです。

そんな中でAuteur Theoryは「映画監督を芸術家として捉えよう」「映画を映画監督の芸術的な表現=作品として見よう」というようなことを言ってきたわけですから、やっぱすごく大きな変化だったわけです。俺の先生なんかもよく言うんですが、映画を芸術としてとらえよう、ってのはつまり真面目に扱おう考えようってことに他ならないわけですから、そもそもうちのBlogがやってるような映画学なんてのもAuteur Theoryがなかれば存在しえなかった、と言えると思います。

これから触れていきますがAuteur Theoryには問題点も多く色々批判されたりしてるわけです。でも例えばそういった学問的なフィールド自体もAuteur Theoryがつくったもんだと言えなくもないわけで、そこらへん今の僕らにとって余りに当たり前になりすぎてるからってAuteur Theoryを軽んじすぎてもいけないんじゃないかなーなんて個人的には思ったりします。

まぁ俺もAuteur Theoryには色々不満があるわけですが(笑)



ちなみに、俺は日本人でゲーム(TVゲーム)大好き人間なので、Autuer Theoryの話なんか聞いているといつもゲームのことを考えてしまいます。今は一般的なレベルではゲームってまだそんなシリアスに扱われてないし、そこには色んな創造性があるのに、ゲームに携わってる人が「アーティスト」として一般にフィーチャーされることは(専門的なフィールド以外では)あまりないじゃないですか。ゲームの「開発者インタビュー」なんてのは結構見かけますが「開発者」なんていうとそれこそ「技術屋」的なニュアンスが強いんじゃないかなぁなんて思います(FFシリーズの坂口さんなんか別かも知れませんが)。

でももしここで誰かが映画におけるAuteur Theoryみたいなことをゲームについて言い出して、それでゲームをつくる人が「芸術家」として認められだしたら、ゲームの社会的地位も変わって、そのうち大学で「ゲーム学」なんてコースができるかも知れません。そんでいつかそういう考え方が当たり前になったりしたら、その未来の人たちは今の僕らが持っているような「ゲームを芸術としてみるなんて」とか「ゲームについて大学で教えるなんて」というような考え方は理解できないんじゃないかなと思います。マンガなんかもそうかも知れません。今は「マンガ学」なんてのもあって、実は自分もちょっとかじったりしてますけども。

Auteur Theoryや、Auteur Theory以前・以後なんて問題も、まぁそういうもんじゃないのかな、なんて思います。個人的にはゲーム学なんてすごくやってみたいですが。

そんじょそこらの映画監督よりも「ロマンシング サガ2」や「タクティクス オウガ」、「風来のシレン」といった名作ゲームを作った人たちの方をよっぽど尊敬してる映画学メモなのでした。
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ロマンシング・サガ2

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タクティクス・オウガ

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風来のシレン



というわけで、かなり脱線しましたが、とりあえずAuteur Theoryについての基本的なところについて考えてみました。次回はもうちょっと歴史的な背景やらAuteur Theoryへの批判なんかをやる予定です。

ではでは、また。
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コメント
この記事へのコメント
ロマサガ2は名作だね~。あんな猿のようにやり込んだRPGは、ロマサガ2とFF4くらいだったな~。んでも、ラスボスは「ラビットストーム+クイックタイム」でしか倒せなくてあきらめた、そんな中学生日記。
って、ここは映画学??ん?場違い?(爽
2006/04/18(火) 11:14:09 | URL | はいけー #-[ 編集]
懐かしゲームメモ
場違いな話を持ち出したのは俺ですが何か?

そして勿論私もラスボスは「ラビットストリーム+クイックタイム」でしか倒したことがありません。ラスボスの前に待っている最後の七英雄がクジンシーで、「ソウルスティール」の見切りを持ってなくてアヴァロンまで戻ったりとか。

まぁAuteur Theoryは大事ってこった。
2006/04/21(金) 12:12:23 | URL | タカ@映画学メモを買うとオマケでついてくる #6SWgxDAM[ 編集]
実は・・・
ひょんなことから、先日「ドラクエ3」をやってみる機会がありまして、ゲームも映画と同じような学問として成り立つんじゃないかな~と考えさせられたりしていました。映画にはない能動的な行為(プレイヤーとしての干渉)などを映画と比べるところから入ったら面白いかなぁ~なんても思ったり。「ゲーム理論」とかはありますが、遠からず映画学寄りな「ゲーム学」みたいな学問も出現するかもしれませんね~。そしたら少し足を突っ込んでみたかったり(笑)映画学と同じような学問的障害は多々あるんでしょうが…。
2006/04/23(日) 16:18:22 | URL | Depper #hJZqYFTY[ 編集]
ゲームの可能性
>Depperさん

お返事遅れてすいませんでした。コメントありがとうございます!エッセイなどがありまして、Blogほったらかしにしちゃったのでした。今日から復帰であります。

ゲームって、いわゆるIdentificationがものすごく強いメディアですよね。実際にキャラクターを動かしたりするわけじゃないですか。個人的にはゲームをしてる時の集中力って映画見てる時よりずっと強いですし(笑)

ですから、ファスビンダーがメロドラマをつかってやったようなことがゲームでも(もしかしたらより効果的に)可能なんじゃないかなと思うことがよくあります。例えば社会的の仕組みを否定的に描いたRPGですとか。

ゲーム学、あってもいいですよねぇ。
2006/05/04(木) 01:33:50 | URL | タカ@映画学メモを買うともれなくついてくる #6SWgxDAM[ 編集]
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