映画学メモ
日本ではまだイマイチ馴染みの薄い「映画学」なるものを、イギリスの大学から実際の映画学の授業に沿うかたちで紹介していきたいと思います。まー気楽にいきましょう。
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映画学入門Week14(その4)
イギリスもすっかり暖かくなってまいりました。
みんな外でダラダラ酒呑んだりしてます。
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さて

Auteur Theoryのお話のつづきということで、前回はAuteur Theoryの歴史的な背景なんかについてやりましたね。今回は、Auteur Theoryへの批判や問題点についてであります。


☆Auteur Theoryへの批判

Auteur Theoryへの批判というと、やはり映画は一人でつくるもんじゃねぇというところがまず出てきます。つまり、Auteur Theoryにおいては(特定の)映画監督を芸術家とみなし、彼の映画を彼の「作品」、つまり個人の芸術的表現とするわけですよね、しつこいですが。。

でも絵画や小説などの分野に比べて、というか恐らくあらゆるメディアの中で、映画っていうのは沢山の、違った役割をもった人たちが関わってつくられるわけです。そして映画ってのは沢山のお金をかけて産業的につくられるものですから、お金の問題なんかも絡んできちゃったりとかして、世相や流行も反映されますし、結局のところ映画をその映画監督の個人的芸術的な表現だなんてとても言えないんじゃないか、という批判がやっぱりAuteur Theoryには向けられるんですね。

例えば映画におけるプロデューサーなんかは、ハリウッドだと特にそうですが、かなり権力があるわけです。このプロデューサーが脚本にケチつけたりすることがあります。よくありますよね、監督は悲劇的なエンディングにしたいのに、いすにふんぞり返って机の上に足乗せて葉巻吸ってるプロデューサーがハッピーエンディングに変えなさい、っていうやつ。まぁでもネガティブな役割だけでなく、結局お金を集めてくるのはこの人ですから、ひとつの映画について映画監督と同じくらい「その映画をつくっている」と言えるんですよね。なんてったってproduceする人、ってことでProducerですから。


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こういう人がですね、「観客が求めているのはね、ハッピーエンドなんだよ」とか言っちゃって。


他にはWeek11Week12でカバーしましたけども、Cinematographer(撮影監督)の存在があります。映画の映像面っていうのは監督と相談した上でこの人がつくってるんですよね。なので、「映像がキレイ!」なんつう映画があったとしても、その大半はCinematographerの手柄といっても過言ではなかったりします。ここらへん、Auteur Theoryに疑問を呈するあたりです。

さらに、やや別な角度からの批判として芸術的創造性って何?っつうのがあります。つまりAuteur Theoryにおける「監督=Auteur」は自分の表現として映画を「創造=Create」するとされるわけですが、その芸術家と芸術的創造っていう考え方はどんくらい信用がおけるもんなのか、っていう議論がでてきます。普段うちらは何気なく芸術家はゼロから何かを「創造」する、と思ってるけど、果たしてそうなのか、という話です。

これは映画だけに限った議論ではなくてですね、広い分野でずっと議論されてきた話題です。有名なところではロラン・バルトの「作者の死(Death of the Author)」という1968年の論文がありまして、彼はその中で;ある作者が作品をつくる、といっても、それはそれまでの伝統や文脈、文化などを総合した上で、それらを組み合わせて作品をつくるのであって、それまで一般的に言われていたようにゼロから創造するわけではない、という感じのまぁ話をします。それまでにあったものとの関係で、それらを組み合わせて作品をつくるわけですね。そうやってつくられた新しい「作品」も発表された瞬間に作者の手を離れ、それらの伝統や意味のつながりの一部となっていく、という考え方です。

この話はフーコーさんも面白い文章を書いていて色々あるのですがとりあえずそこらへんはすっ飛ばしまして、要するに映画監督が芸術家としてゼロから創造する、っていう考え方もちょっと違うんじゃないの?っていう批判がAuteur Theoryに対して向けられた、というのが大事なところであります。この「作者の死」というのは映画だけの話ではないのですが、映画は特に売れなきゃしょうがない、という要素が強く、また社会の雰囲気を反映しやすいと言われますから、それまでの伝統や社会の情勢などによって作品がつくられる、という言い方は結構成立するんじゃないか、という話です。

とまぁ主なところでここらへんがAuteur Theoryへの批判としてよく言われるあたりです。


☆補足

でもAuteur Theoryの方にも勿論言い分はありまして、Auteur Theoryってのは、最初に「Auteur」としていた監督がヒッチコックやハワード・ホークス、ジョン・フォードなどであったことからも分かるように、もともとは、ハリウッドのスタジオ・システムの中で、いろんな要素に題材やストーリーなどを規定されつつも、その中で創造性を発揮した人たちについての理論だったわけです。つまり、映画監督を芸術家としつつも、色んな要素をすでに規定された中で創造性を発揮する芸術家、という感じだったんですね。それがだんだん「アート・シネマ」という概念の登場などによって、Auteur Theoryは芸術的な映画をとる芸術家的な映画監督についてのTheory、簡単に言うとヴァン・ゴッホ的な映画監督を前提とするような感じに変わっていくんですよね。これはAuteur Theoryの方が変わってきたのか、一般的なAuteur Theoryに対する考え方が変わってきたのかはわからないんですが・・・。そこらへん考えるとAuteur Theoryに対する批判なんてのも必ずしもそうではないかな、なんて思ったりします。

まぁAuteur Theoryにしろ「作者の死」にしろ、完全なTheoryではないわけです。つまり、単純にAuteur Theoryですべてを解決してしまうには映画は複雑すぎるし、単純に「作者の死」で済ませてしまおうとすると、映画監督の存在感や実際にある種の映画で彼らが果たしている中心的な役割を無視してしまうことになるんですよねー。なので、今のうちらにとってこの場合大切なのは、「映画は誰のもの?」という議論が映画学、また映画全体にとって常に存在していて、またそれには色んな考え方がある、ということなんじゃないかなーと思います。



というわけでAuteur Theoryでした。やや駆け足でしたが・・・。
ここらへんは結構単純そうでちょっと深入りするとなかなかまとめきれないエリアなんですよ。

次回はAuteur映画の例として、ファスビンダーの話をしよーかなーと思います。

ではでは、また。
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コメント
この記事へのコメント
Auteur Theory ってカタカナにしずらい
今日は、勉強に付き合ってもらってありがとうございました。取っ付き辛いと思ってたauteur theoryですが、以外にいい人かもって思えましたよ。というか最初からここ見ろって話ですね。はい すみません。
2006/05/10(水) 18:56:47 | URL | Lushy #-[ 編集]
オウチュア セオリー
Auteur Theoryは、まぁなんとなく内容をつかんでしまえば色々と柔軟に書きやすいネタだと思うよ。

まぁ映画学メモも色々参考にしてもらえれば幸い。
2006/05/11(木) 00:40:58 | URL | タカ@映画学メモの中に入ってる人 #6SWgxDAM[ 編集]
ゼロからの創造
「作者の死」のところを読んでいたら、ゴダールの映画に出てきたことばを思い出したよ。人はあることを考える時、実際はいつも他のことを考えていて、他のことを考えずに何かを考えることなんてできない。とかいってたな。多くのことにおいて、本当の意味で新しいことなんてないのかもね。
2006/05/17(水) 18:09:59 | URL | スピード違反中のカリーナ@アリゾナ #-[ 編集]
そうだねー
俺もどちらかというと、そういう見方に賛成です。「作者の死」とまではいかなくても色んなことが色んなほかのことと絡み合いながら生まれているわけで、そう考えるといわゆる「ゼロからの創造」っていうアイデアはちょっと信じがたくなってくるよね。

「作者」や「創造」という概念をつかって世界をある程度単純に解釈する試みに、うちらは抵抗する必要があるように思います。
2006/05/18(木) 19:39:04 | URL | タカ@映画学メモっぽい人 #6SWgxDAM[ 編集]
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